東京にあって、なぜ “大坂家”なのか。
 
数々の火災に遭い貴重な資料は焼失してしまい
残念ながら詳細は不明のままですが、その昔、
大坂表(おおさかおもて)で商売していたことだけは分かっております。
そして何らかの理由から江戸へ移ってきて、現代に至るという風に推測されます。
江戸での創業は元祿年間(1688〜1703年)とされており
おおよそ300年前、現在の店主で十八代目になります。
当時の事は蜀山人著「半日閑話」、柳亭種彦著「環魂紙料」、そして
文政版「江戸買物独案内(えどかいものひとりあんない)」等
数々の古書にその名を留めております。
 
創業当時は屋号を大坂屋としており、明治27年まで
現在の日本橋小網町に店を構えておりました。
当時は堀江町と小網町の間にあり、履物屋と傘屋が多く並んでいたという
俗に照り降り町(照れ降れ町)と呼ばれていた地区で営業していました。

また当時は、伊勢大掾(いせだいじょう)という称号を持っておりました。
この称号は大宝令で定められた国司の階級としてあったもので、
京都から賜わるものであったようです。
===小網町一丁目に、大坂屋伊勢大掾といふ菓子屋あり、
いかなる事にや、大掾と計りいひてとほつたり、其名を知らざる者多し。===
(四壁庵茂鳶薯「忘れ残り」より抜粋)
このように当時は大坂屋のニックネームとして
“大掾”という名が広く知れ渡っていたようです。
 
その後十五代目の時に貰い火により焼け出され、
現在の東京都港区芝にある金杉橋に一時身をよせて細々と
商売を続けました。そこで十六代が店名を大坂家と改め、
商売の先行きの見通しが立った頃、かの有名な大正十二年九月の
関東大震災に遭遇してしまい、再び店を焼失してしまったのです。
その後、十六代は再出発の場を三田か自由が丘かと悩み、
結局現在の三田に落ち着いたということです。
 
ーーーそれから昭和二十年五月二十五日の空襲で再び店を焼失することはあったものの
お陰様で現在に至っております。

 

昭和2年集合写真 16、17代

昭和50年頃 大坂家店舗と17代雪さん